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ちょっとマニアックな話なんだけど
車を使った競技「ラリー」を通じて ルールと、その運用の仕方について話してみる。 つい先日、友達が参加したあるラリーで、クラス2位でゴールしたんだけど ゴール後に失格になってしまった件。 これが、どうにも納得出来ない。 … ようするに、こういうことだ。 スタート前の車検では何も言われなかったマフラーが ゴール後、上位入賞者だけに行われる事後車検で ルールに違反しているということで、失格になったのだという。 というのも、ルール上純正品を使っていなきゃいけなかったのに 純正オプション品のマフラーがついていたため失格だというのだ。 もちろん、ルールに適合しないものを使ってる参加者の責任なんで それは当事者が一番良く理解している。 ここからは、ただ第三者の俺の不満ぶちまけコーナーだ。 とにかく、この結果について気に喰わないことが2点。 ひとつは、スタート前の車検でなぜ指摘してくれなかったのか。 そうしてくれれば、きちんと純正品に交換して失格にはならなかったはずだ。 もう一つは、このマフラーが純正品とほぼ同一の音量だったこと。 本来、純正品の仕様を定めたルールの目的は 「近隣住民に迷惑をかけないため」なはずで、だとしたらわざわざ 純正と全く同じパーツでない、というだけで失格にまでする必要があるのか、疑問だ。 … しかし、モータースポーツではこういう 本来の目的からズレたペナルティというのはよくある。 たとえば、全然性能に影響のない 純正のパーツがいつのまにか小変更されていて優勝取り消し、とかね。 2000年オーストラリア、マキネンのランサーはターボで、 2004年キプロス、グロンホルムのプジョーはウォーターポンプの羽の材質で。 事前に登録していないパーツは、勝手に使っちゃいけないのよね。 マキネンの場合、1999年のサファリでタイヤ交換の際に観客が勝手に マシンに触っちゃって、これがルール違反になって失格ってのもあった。 たとえばジャッキー・チェンの映画「デッド・ヒート」で ピットイン中のジャッキーにヒロインが勝手に水を渡しちゃって ペナルティ食らっちゃうシーンなんかもあったよね。 モータースポーツ以外のスポーツでも結構あるかもね。 ウエアのゼッケンが剥がれかけて失格とか、 風邪薬を飲んだだけでドーピングで失格になるとか。 わりかし、そういう「悪気が会ったワケじゃないんだから見逃してよ~」 というペナルティはよくある。 そして、悪意丸出しのズルは きっちりバレないように対策してくるので、なかなか摘発されない。 (トヨタのリストリクター事件を除く) そもそもバレなければ反則ではないし、ルールに違反していなければ反則ではない。 本来の意図とは大きく異なったルール解釈でも。 どんなにあれこれ対策しても、不良少年の喫煙を防ぎようがないようなもんだ。 それでも、タバコを吸うキャラは作れなくなるし タバコ広告はモータースポーツに出せないし、タバコ買うときの手間は増えるし… … モータースポーツにおけるルールは 1.ズルをしない 2.お金かけすぎない 3.社会に迷惑かけない 4.安全のため だいたいこの4つの目的のために制定されてるんだけど 本来の目的がどっかにいっちゃって、ルールを守ること自体が目的に なっちゃってたりする。 例えば、先のリタイアした選手のクラスは1400ccまでの車両のクラス。 デミオ、スイフトあたりが本来の競合車種なんだけど ロータリーエンジンのRX-8は1400cc以下なので出場できちゃう。 結果として、舗装路面じゃ到底太刀打ち出来ない。 普通のモータースポーツの種目だと、ロータリーは普通のエンジンに比べて 排気量当たりの出力が極端に高いので、公平になるようハンディが課せられる。 (ロータリー係数っていうのがかけられて、大きな排気量のクルマと同一扱いになる。) マフラーうんぬんより、まずこっちを何とかしないと ルールって一体何だ?と思う。 車種ごとの公平さってなんなのかわかんないし、 見てる方からしても、意味がわからない。何でコンパクトカーと ロータリーエンジンのスポーツカーが勝負してるの?ってなるじゃん。 こういうのは、結局どんどん競技自体の魅力が減っていって 参加する人も、見る人もどんどん減っていくことにつながる気がする。 競技を守るためのルールが かえって競技そのものを破滅させてしまいかねない。 … この、ルールを守ることが目的っていうのは モータースポーツに限らず世の中たくさんある。 つまり、手段が目的と化しちゃうってことだ。 プロになりたいと思うあまり、プロっぽいことをしようとして 見えはってバカみたいに金をばらまいて、いろんな人にケンカ売って 大赤字になっちゃう、プロとして全然うまく行かない「自称プロ」みたいなね。 学生運動形は、革命を起こして社会をより良くすることではなく ヘルメットかぶってバリケードを張って火炎瓶投げてデモやって 内ゲバで殺しあうことが目的になっちゃった。 労働組合は労働者の待遇を良くすることではなく、 反原発活動は未来の子供たちのためでなく、学生運動家くずれの安住の地と化してしまった。 国民のための国会は、国会議員のための国会と化してしまって エボラ出血熱やら、イスラム国の問題やらよりも、「うちわ」モメに終始してしまった。 マスメディアは公平に情報を伝えることではなく、 とにかく報道すること自体が目的となっちゃって 広告も、より良い物を世間に伝えていくのではなく 消費者を洗脳してでも、モノを売り込む手段となってしまっている気がする。 利益上げるという目的→仕事を一生懸命することが良いこと →終電まで仕事無くてもずっと残ることが良い、にすり替わっていたり。 手段が目的化するとろくなことがない。 そんなことをぼんやり考えていたんだけど 先日、TEDで素晴らしい回を発見したので貼っておこうと思う。 バリー・シュワルツの「知恵の喪失」というやつで 「バリー・シュワルツは官僚主義を突き詰め、 破綻の道を進む社会の特効薬として「実践知」が必要だと提唱する。 規則は役に立たず、よかれと思って与えるインセンティブは裏目となり、 そして、実際的で日々の糧となるような知恵こそ世界を再建するのだとバリーは力強く説く。」 内容は要するに、ルール至上主義じゃ世の中全然うまく行かない。 現場の人間が、何が重要なのかよく考えて柔軟に行動すべきだ。 というふうに説いてる。 ルールを厳格に守るだけなら、これから先の未来 コンピュータやロボットにやってもらえばいいだろう。 でも、ルールを状況に合わせて柔軟に対応させていくことは 人間にしか出来ない、と思う。 これから先は、人間は人間にしか出来ないことを 手段ではなく目的としていくのがいいのかなと、思ったりしました。 乱文失礼。ではでは。
by hiwai-rs
| 2014-10-27 23:43
| つれづれ
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